2012年5月7日月曜日

A VIDA EM ROSA フェルマーの最終定理


A VIDA EM ROSA フェルマーの最終定理
A VIDA EM ROSA


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フェルマーの最終定理
2010/02/14 19:50

 「nが3以上の整数であるとき、Xn+Yn=Znを満たす整数XYZは存在しない」
 17世紀フランスの法律家ピエール・ド・フェルマーによって問いかけられたこの予測は英国生まれの数学者アンドリュー・ワイルズによって1995年に証明された...

 歴史的史実としてはたったこれだけで終わってしまう出来事であるが、この史実の背景には語り尽くせない多くの偉大なる数学者達の活躍がある。というわけで、今日は私カカセオ一押しの一冊をご紹介!

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)
(2006/05)
サイモン シン

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 事の発端はピュタゴラスによる三平方の定理、つまり全ての直角三角形につきX2+Y2=Z2(Zが斜辺)という関係が成り立つとするかの有名な公式に行き着くのであるが、乗数が2の場合にはここでのXYZに該当する整数は無数にあるのに対し、3以上にした途端にゼロになってしまうのだ。
 この奇妙な事実こそが法律家を本業としながら趣味の数論を楽しみ尽くした天才=フェルマーが世に問うた、その後350年にわたりあまたの数学者の証明を拒み続けた「フェルマーの最終定理」と呼ばれた悪魔の証明課題だったのだ。


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 数学的証明の真価はその絶対性にある。例えば裁判における証明はもとより科学的証明でさえ「合理的な疑問にすべて答えられる」だけの証拠をもって十分とされる。これに対し、数学的証明においては常に100%の証拠を要求されるのだ。それゆえに数学的証明は一度証明されてしまうと後世で覆る事がない。
 しかし、これはそれだけ数学的証明が難しいという事をも意味している。特にフェルマーの最終定理に関しては「文明はフェルマーの最終定理が解かれる前に滅びるだろう」(E.T.ベル)とまで評されたのである。後世の数学者達をあざ笑うかのようにフェルマーはこんなメモを書き残していた。
 「私はこの命題の真に驚くべき証明を 持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことは出来ない」

 さて、難攻不落の城フェルマーの最終定理に最初に肉薄した人物がレオンハルト・オイラーであった。18世紀最高の数学者と称されるこの大天才はXn+Yn=Znにおけるnが3の場合に解が存在しないことを証明した。
 生前フェルマーはnが4の場合について解がないことの証明については書き記していた。
 オイラーはその証明をヒントにnが3の場合の証明を成し遂げたのであるが、これはnが4の場合よりも遙かに難しくまた重要なものであった。
 それは3が素数だからだ。素数はあらゆる数の原子とも呼べるものであり、素数以外の数は全て素数を掛け合わ せて作る事が出来るのであるから、フェルマーの最終定理におけるnも結局は素数の場合だけを証明すれば足りることになる。
 しかし、一筋の光明が差したかにも思えるオイラーの証明であるが、実はそう甘くはなかった。なぜなら、素数も無限に存在するものだからだ。無限に存在するものにいくら絞りをかけても有限にはなり得ない。


どのような街はジャンニ·ヴェルサーチが射殺された

 時代はさらに進み、フェルマーの最終定理を巡る物語は更なる暗黒期を向かえていく。
 女性蔑視の強い当時のフランスにおいて差別と闘いながらも「数学者の王」カール・フリードリヒ・ガウスという知己を得たソフィー・ジェルマンの活躍が切っ掛けとなり、それぞれ異なる学者によってその後n=5、n=7の場合にも解のないことを証明され、さらにはガブリエル・ラメ、オーギュスタン・ルイ・コーシーの両者がフェルマー最終定理に対する完全な証明を予告した。
 しかしながらそうした期待もエルンスト・クンマーによって全てひっくり返されてしまう。
 さらに追い 打ちをかけたのがあのクルト・ゲーデルの不完全性定理である。ゲーデルは、完全で矛盾のない数学体系をつくるのは不可能であることを証明し、たとえ公理を使っても数学には証明することの出来ない問題が存在することを示したのだ。すなわちこれは、例えフェルマーの最終定理が真理だったとしても、それを証明する方法があるとは限らないという非情な現実を突きつけられた事を意味していた。

 さて、そろそろ主人公アンドリュー・ワイルズに登場していただこう。
 数学好きだった少年アンドリュー・ワイルズは10歳の時図書館である一冊の本に出会った。その本に書かれた不思議な公式は瞬く間にこの天才少年を虜にしてしまったのである。その公式は10歳の彼でも理解出� ��るほど単純なものなのに300年以上誰一人解く事が出来ないでいるという。この「フェルマー予想」に出会った彼の人生は以後それを解くことのみに向けられていくのである。
 やがてケンブリッジの大学院生となったワイルズであるが、彼はここで一旦フェルマー問題からは距離を置く羽目になる。なにせ百戦錬磨の学者達が束になって取りかかっても全く歯の立たないフェルマー予想である。いかにワイルズが天才とはいえ一院生に過ぎない彼がいきなりフェルマー予想にとり取り組む事は無謀以外の何者でもなかったのである。
 彼の指導教官は楕円曲線論というフェルマー予想とは何の関係もないテーマを彼に与え、ワイルズはしばしの間その研究に没頭するのである。ところが、運命とは面白いもので、� �の楕円曲線論こそがフェルマー予想の証明という偉業達成に多大なる貢献をすることになるのである。


インディアンはアメリカに来たか

 ここで、二人の日本人数学者が関係してくる。志村五郎と谷山豊である。
 1955年、未だ第二次大戦の後遺症に苦しむ日本の数学界で、若手の研究者たちが中心となった初の国際シンポジウムが開催された。世界の一流学者達を相手に日本の若手数学者達は、その多くのテーマがやや流行遅れのものでありながらも賢明に各自の研究成果をつたない英語で発表したのである。
 だが、そのなかで谷山が提示した仮説は世界中の数学者達を驚かせるものであった。それは従来全く別分野のものとして考えられていた「楕円曲線とモジュラー形式とが同一ではないか?」とするアイデアであったのだ。
 どの分野の学者で� �れ、彼らは総じて「体系」の構築に喜びを感じるのであり、それまで無関係であったテーマが結びつくことに一種の芸術的価値すら見いだすのである。無論そうした学問的美しさ以上に、異テーマ統一による相乗効果が研究成果を一気に加速するという実利がより重要なのだ。
 谷山の予想はその後志村の手によってより厳密な仮説へと組み立てられ、「谷山=志村予想」として学会へと広がり専門家を仰天させながらも次第に有力な仮説として認知されていったのである。しかし、その一方で誰もそれを証明出来る人間はいなかった。数学者達の多くはこれもまたフェルマー予想と同様に証明不可能なものと考えていた。


 ところが、その後「谷山=志村予想が正しければフェルマー予想も正しい」という驚くべき事実が明らかになるのである!
 その事実を友人宅で聞いたアンドリュー・ワイルズは封印していたフェルマー予想の証明へと本格的に取り組む決意をする。フェルマー予想を証明するには谷山=志村予想を証明すればよい、しかも谷山=志村予想は自分が専門として選んだ楕円曲線論に関するものなのだ!
 すぐさま証明に取りかかるワイルズであるが、難題の連続であった。彼は徹底した秘密主義を貫き約7年間孤独な闘いに没頭した。彼が谷山=志村予想を証明するのに用いたツールが、数学史に劇的な一頁を残した19世紀フランスの天才エヴァリスト・ガロアによる群� ��に関する研究であった。難解を極める彼の研究は全てが極秘に進められた。
 
 1993年6月23日、ケンブリッジのニュートン研究所において行われた研究集会において、ワイルズは三日間に渡り「世紀の講演」をすることになった。彼の題目は「モジュラー形式、楕円曲線、ガロア表現」であった。ただし、この講演の最終目的を知っている人物はほんの一握りに過ぎなかった。
 一日目、二日目と講演が終了に近づくに連れ、参加者達から「もしかしたら...」という噂が飛び交い始めた。
 講演三日目、20世紀最大の数学事件の噂を耳にした参加者達で講演会場内は満杯となり通路にまで人が溢れる始末となった。講演の終わり間際、研究所長が取り出したシャンパンによってその噂が事実であることを誰もが確 信した。
 ワイルズが最後に書き記した公式、それは紛れもないフェルマーの最終定理であった.....


 この歴史的講演の後、ワイルズの証明は一カ所不完全な部分が発見され、彼はその完全な証明を成し遂げるまでさらに2年間の苦労を費やす事になる。この時発見されたエラーは実はかなり深刻で一時期はワイルズ自身絶望しかけた程であったが、彼は最後まで諦めずついに1995年この歴史的証明を完成させたのである。
 こうして、17世紀に一人の悪戯好きな学者が謎をかけ、その後3世紀以上に渡り多くの数学者達を巻き込んだ大問題は決着をみた。たった一つの問題がこれだけ多くの天才達を夢中にさせてきたのだ。
 この物語に登場した数学者達の人生はどれもが波乱に満ちている。卓抜した才能と独創性で世界に誇るアイデアを生み出しながらも突如自殺してしまった谷山。その谷山の予想を必死の努力で完成させた志村。あまりに革新的であったため同時代では誰も彼の理論を理解出来なかった悲劇の天才ガロア。
 謎をかけたフェルマー本人は果たしてこれほどのお祭り騒ぎを予想していたのだろうか?
 
 .....というわけで、「フェルマーの最終定理」如何でしたか?
 人々の関心は歴史そのものよりむしろ個々人に向けられるのが常でありますが、私はこのフェルマー最終定理を巡る物語を読んだ時ほどそのことを実感した事はありません。


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